その23
          「なまこ山」の巻(1984. 8.bQ)         

 「なまこ山を知ってるかい」と、建築指導センターの末武さんに尋ねたら、「アア知って
るよ」と、すぐ返事がはねかえってきた。知る人ぞ知るである。
 山麓に近い「山鼻」、「幌西」、「円山」、「琴似」等の小学生は、それぞれ自分の家の
玄関先からスキーをはいて出かけたものだが、「中央創成」、「豊水」、「北9条」等の都
心部の小学生は電車でスキーに出かけた。だから出発点は「円山終点」であった。
 「円山終点」でスキーをはいて、左に向うと双子山方面。中央に進むと荒井山方面。右
に向かうと三角山や寺口山方面へと別れた。
 この三角山や寺口山
へは、ろくに家も無かっ
た頃だから平坦な畠を
斜に横切って、どんどん
進んで行けばよろしい。
よろしいのだが、目的
地の手前に忽然と横た
わっていた
のがこの「なまこ山」で、
これをつっ切って進め
ば最短距離だが、自信
のない者は大迂廻した
ぐらいだから、小学生に
とってはかなりの急傾斜
だった。名称の由来は勿論その形状によるものだが、「山」と云うよりは「丘」程度のもので
しかなかったのは事実だ。(スケッチ参照)
 この「なまこ山」を「馬場山」とも称したので調べてみると、大正8年(1919)に馬場和一
郎氏がこの山を買い取って牧場を経営したが、2代目の馬場忠氏の時代にはこの牧場を
恵庭に移転したとある。
 要するに、荒井山も馬場山も、寺口山にしても旧地主の苗字からとったものだ。
 ところで、或る書籍には標高85米とあるが、この付近は海抜50米位はある筈だから、
実際の高さはせいぜい30米位だった記憶に間違は無さそうだ。
 しかし、「冬は小学生のスキー場に開放し、初歩スキーヤーのよい練習場であった」。
と、いう記事は事実とは全く相違している。
「なまこ山」の周囲は、牧柵やバラ線で取り囲まれていて、その「切れ目」を我々は無断で
横断していたのだから決して開放はされてはいなかったし、前述したように急坂だったか
ら、ジャンプ好きな連中が、手製のジャンプ台で遊んでいた程度で、決して初心者向きの
よい練習場でもなかった。
一流書籍でもアラを探せば結構あるものだと云うことがわかった。
 ところで、三角山の東面、市内から眺められる斜面は、昭和30年代まではスケッチの様
に整地された状態が良くわかった。これは戦争に突入のため取り止めとなった。昭和15年
開催予定だった「第5回冬季オリンピック札幌大会」の廻転や滑降用に着工されたもので、
山麓から頂上まではリフトが取り付けられる計画まであったことを知る人は少なかろう。
 50年近くなって、山の緑はすっかり昔に戻ってきたが、山をけずって出来上った広々とし
た道路上に、もうけっして緑は戻ってこないことは、何といっても淋しいことだ。