その3
     「花魁淵」の巻(1977.8.bR)

 前号で述べた「軍艦岬」をすぎて、ややしばらく行くと、石山通は二股に別れていて、この別れ
目にかなり大きな石碑が建っていた。明治14年と言えば100年近くも昔の話だが、時の明治天
皇が此所をお通りになった記念碑である。この記念碑に向って左側の細い道路が本来の石山通
で北から南へ真直ぐに通じていた。これが豊平川に突き当たったところに「渡船場」があって渡し
舟で山鼻と真駒内が結ばれていたわけで、真駒内に着くと道は又、真直ぐに南へ南へと続いてい
たが、この道が、札幌オリンピックの室内競技場の東側を走る、片側にポプラの大木が1列に並ん
でいる道なのである。
 とにかく「石山通」と称する道路はたいしたもので、前々回にご紹介した「魔の踏切」のある北7
条から真駒内まで、南6条あたりで少々曲ってはいても約7`にわたり街の真中を南北に突き通
しているのである。
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 さて、昭和7年(私が小学校1年生の時)鉄筋コンクリートで旧藻岩橋が、「渡船場」の上流約
1`のところに完成した。南15条に架けられた「幌平橋」−当時はまだ木橋で、札幌と平岸を結ん
でいるので、そう名付けられた。−以南では唯一の永久橋であったが、この橋のおかげで渡船場
は廃止され石山通の本道は林檎畠の中で廃道同様となってしまって、国有未開地となっていたが、
札幌オリンピックに先だって、渡船場の跡に「新藻岩橋」が架けられ廃道は再び息を吹き返して、
市バスの営業所の真中を突切って、旧石山通とドッキングしてしまった。
 一方、「旧藻岩橋」のほうは、老朽甚だしく改修の上、人道橋に格下げになってしまった。誠に栄
枯盛衰は世の習いとは申しながら、橋の身の上にも今昔の感深いものがある。
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 ところで、時は昭和一ケタの末期だから「旧藻岩橋」も出来たばかりで、前述の二股から「石山
通の新道」はやや右に折れて南へ延びている。これが拡幅整備されて、左手に「旧藻岩橋」しば
らく行ってアスファルトプラントやゴルフ練習場、右手に藻岩高校などを眺める現在の国道230号
線の1部になっているが、これもオリンピックのおかげで、旧道は山沿いに曲りくねって細々と続い
ていた。国道から別れて藻岩観光道路に行く道、これが旧道である。
 今でこそ、川沿・北の沢・中の沢・南の沢等と山奥まで住宅が貼り付いているが、当時はここい
ら一帯をひっくるめて八垂別(はったりべつ)と言っていた。勿論堤防などはなく、洪水の時でも水
に浸からないように山沿いにつけられた道だから、左側は広々とした石ころだらけの河原で、勝手
気ままに豊平川が分流して所々は深い淵になっていた。右側は階段状の山すそで、少し平らなと
ころには果樹園や畠もあったが、まあ虎杖のかぶさってくる田舎道と言ったあんばいであったので
ある。
 右側の小さな八垂別小学校(現藻岩小)をすぎてやや行くと、左側の川幅がぐっと狭ばまって、崖
ぶちに到着する。これが目ざす「花魁淵」であり現在は「藻南公園」となっている。
「藻南公園」−今でこそ公園らしい体裁になってはいるが、何しろ附近に自衛隊の官舎が並び、一
般住宅がおしよせ、ホテルが建ち、向う岸にはジンギス汗屋があったりする上に、藻南橋をひっきり
なしに車が行きかって全くもって殺風景な極みである。しかし当時は民家1つない正に深山幽谷の
たたづまいであった。 何しろ水量が豊かで、青黒い底無しに見えるよどみが崖にそって連らなって
いたが、簾舞ダムが完成したのが昭和11年だそうだから、定山渓方面からの川水は妨げられるこ
となくタップリと流れ下っていたのだろう。
 花魁が身投げをして死んだので、「花魁淵」と言うのだそうだ。花魁とは何だろう。綺麗な若い女
の人だそうだ。ああそうか・・・・と言った程度の幼い我々には、目の前の「水底」に髪ふり乱した若い
娘が住みついて、足をつかまえては引きずり込むような気がして、悪童連といえど飛びこんで泳ぐ者
は誰もいなかった。
 しかし川原へ下りて、飯盒で飯を炊き、豚汁に舌鼓を打ち、石をはがしてザリガニをとったり、飯
粒をつけた糸でカジカを釣ったりして、軍艦岬の影が長く尾を引く頃、家路へ急ぐのが常であった。
 南22条の電車通から往復約10`、そこから電車に乗り込むのは、ぜいたくなほうで、北大正門
前あたりの自宅まで歩いて帰る連中もかなりいた。これが小学校3、4年生時代の話であるから今
時のヘナチョコ小学生を見るにつけ我々の爪のアカでも煎じて飲ませてやりたい気持ち一杯である。
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 11月から国道230号線は「藻南橋」を渡らずに真直に南へ延びて、豊平川を斜に横切って、石
山市街のはづれに出てくるようになる。従って「藻南橋」は旧道に架けられた橋となって交通量は
ガタ落ちになることだろう。誠に結構なことで、「花魁淵」の静けさもかなり取り戻されてくることにな
る。「八垂別」とはアイヌ語でハッタリ(淵)ぺツ(川)と言うことだから、何としてでも、深い深い淵と
原始そのままの様な昔の姿になってもらいたいものである。
 ところで読者の方にご教示いただきたいことがある。豊平川の左岸(山ぞい側)に山路が続いて
いるが、これは今通行止めになっている砕石場の脇を通り、廃校になった白川小学校の前をすぎ
白川の水道局施設を左に見下して簾舞の国立療養所へと延びている。事務局次長の桑野さんが
数年前に探検したところでは、簾舞からさらに八剣山の麓を曲りくねりながら小金湯までは続いて
いたと言う。
 さてこの山道は定山渓温泉までつらなっている。又はつらなっていたのであろうか?
 又、今は国道230号にはなっているが、右岸にも定山渓へ行く道はあったわけだから、その昔
はどちらが「本道」だったのだろうか?