その31
          「琴似川」の巻(1987. 4.bP)         

 「琴似川」は、今どうなっているのでしょうか、と、たずねられた。
 「琴似川」と聞けば懐かしい少年時代の思い出が甦ってくる。
 その頃(昭和ヒトケタ時代)には、北大の構内を流れる「サクシコトニ川」にはや、トンギョや
エビ、そうしてサルカニが沢山いたが、魚釣りをする程の川ではなかった。しかし「琴似川」な
らば子供の我々には大魚と思われる獲物が棲みついていたからだ。
 北8西5にあった我が家から北大を通り抜けて「魔の踏切」に出る。函館本線に沿った道路
がないので、小学校では厳禁されてはいたが、レールの上を駆足で「桑園駅」に向う。駅の
手前までくると、「競馬場通り」の踏切があるから、あとは線路に沿ったこの道を琴似へ向って
ゆけばいいだけとなる。要は「魔の踏切」と「競馬場通りの踏切」との間約300米程が幼き我々
にはスリルとサスペンスに溢れた道中だったわけだ。
 当時の競馬場には「目かくし」用のかこい等はなく、木造のチャチなスタンド付近は別として、
そばを通る道路からレースはいくらでも観戦できた。だから騎手の華やかな服装に憧れて、赤
勝て、青勝てと声援を送っているうちに、遅くなったので魚釣りはやめて、家へ戻ったことも再
三だった。
 さて、この線路に沿った「競馬場通り」を、1本10銭の釣竿を肩に西面した正門をすぎて一寸
行くと、右手に木立に囲まれた「内山養魚場」があった。「釣り堀り」や、ちょいとした料亭風の建
物もあって、此所で鯉や鮒ばかりの料理で一杯やったのは昭和40年頃の事だったから、20年
前にはこの辺りは未だかなり田舎だったわけになるが、私の少年時代はそれより30年も前の
話だからおして知るべしだ。
 この「内山養魚場」の小樽側に沿って流れているのが「琴似川」だったが、函館本線と札沼線
の分岐点に近かったので、それは隣りあわせた2つの鉄橋の下をくぐって、山の手方向から下
手へと続いていた。流れはゆるやかで常に濁っていて、両側はうっ蒼たる草木に覆われた崖
だったので、原始河川そのものの様相を呈していた。
 思うに、我々が大物釣りに度々行ったのも、長雨の後など、釣り堀りの水が溢れ出る際に逃げ
だした鯉や鮒が棲みついていたものだろうし「八ツ目」にしても住みよい環境だったに違いない。
しかし我々の10銭竿に大物がかかると、これはもういけない。竿を折られるか、テングスを切ら
れるかだったが、幼な心にもこのスリルが止められなかったのだ。そうして「川蟹」もまたよく釣れ
た。「川蟹」は水面と崖の境界のあたりに横穴を掘って棲みついていたようだが、腹ばいになって
この横穴を突ついていた幼友達の1人が、逆さまに川へ落ちこんだ。落ちこんだついでに、両手
に「八ツ目」。もう1匹を口にくわえて、はい上ってきた・・・・そうだが、我々はこの友達を英雄視し
ていたのだから無邪気だったものだ。
                        ◆
 さて、この琴似川は、円山か三角山方面か
流れてくるわけだが、今や札幌市内のド
真中がその流域だから、切り替えられ、暗
渠になりして昔日の面影は殆んど喪失して
しまったので、前述のような質問も出てきた
ものだろう。
 そこで、屯田兵4代目の私のことだから、
我が家に伝わる「琴似兵村史」・・・・(大正
13年・1924発刊 )・・・・によると、こう記さ
れている。
 「琴似川はケネウス山より発するケネウス
ベツと円山村より来るヨコシベツと相合した
るもので札幌市との境界を北に流れて新川
に入る。新川開削前は篠路太に至り石狩
川に注いだ。」
 先ず「ケネウス山」が不明だ。
 次に「札幌市史(旧版)」・・・・(昭和28年
刊行)・・・・には比較的くわしくこう載ってい
る。
 「札幌と琴似との境をなす琴似川は、ケネ
ウシベツ川・ヨコシベツ川・ポンコトニ川・マ
ロンベツ川・シャクシコトニ川等多数の支流
が合流したものである。三角山以東円山・
藻岩山の各沢々の流れはみなこれに注
ぎ、西5丁目以西の数十数百のメムの湧水
は全部この川に流入するので、名前は琴
似川でも事実は札幌市内を流れる川であ
り・・・・」。 これによると、「兵村史」にある
ケネウシベツ川が重複しているので、どう
も本流らしいし、シャクシコトニ川は北大構
内の小川なことは明白だが、他のカタカナの川の所在は不明だ。しかし何となく状況は浮んでくる。
 又、円山の古老談によると、「大正の円山は主流2流が並行北流し、北4条西25、6丁目の
あたりにあった通称〈重兵衛沼〉にそそぎ、それより北行して村界のヨコスベツ川と合流してい
た」と、いう思い出が残されている。このことは、琴似と円山の村界を流れていたのが「ヨコ・ウ
シ・ペツ」でなければならないことになる。
 その昔、国道5号線にバスが走り始めた頃、今の北7条よりちょっと行ったところ、環状線と
交叉するあたりに小川があって、此所に「琴似村界」と称する停留所があった。後に「琴似町
界」と変わったが、この小川が「ヨコシペツ」の名残りだったに違いない。そうしてそれからもう
少し行くと市バス「琴似営業所」の手前で、「いすゞ自動車」の北側を立派に護岸された、小川
が走っている。これを現在、我々は「琴似川」と呼び、別名「十二軒川」とも呼ばれていたが、
水源は「荒井山」のふもとを流れる沢水で、アイヌ語の「ケネウシペツ」だ。
 このあたりまで調べてきて、古文書や古地図をあさった結果は、何が「琴似川」の本流なの
かが不明となってしまった。
・「ポンコトニ?」は円山と札幌の境界として、今では北2西21と西22の分割線として、おかし
な小路となって残っている。
・「ポロコトニ?」は円山小学校の裏手の小路や、南1西26にある「郵便貯金会館」東側の「遊
歩道」としてその名残りを止めている。
・「界川」は啓明中の裏手で地下に潜ってしまったが、或いは「ポロコトニ」と合流していたよう
にも思われる。
・「円山川」は市長公宅の傍の池から先は、北1条通りの下を潜り、昭和30年代の初期迄は
北3条通りを東流して、26丁目あたりで前述の円山小の裏手から流れてきた、ドブ川と合流し
て北上する状態ではあったが、現在ではすべて地下に隠れてしまっている。
 従って、川らしい状態で流れているのは、荒井山方面からの「ケネウシペツ」だけで、これが
「琴似川」の本流だと云われても仕方のないことになろう。
 ともあれ、「失なわれた川」の怨念は恐ろしい。あの昭和56年夏の大豪雨に、よもやと思わ
れた街の真只中で時ならぬ床上浸水等で大騒ぎをした場処は、殆んどがこれらの「川跡」か
〈重兵衛沼〉があった等と伝えられる「メム」(湧水池)の埋立地跡だったのだ。