その44
         「東橋通り」の巻(1991. 8.bQ)

 私がこの世に生をうけた大正14年(1925)から終戦の昭和20年迄の間は、豊平川に
架けられた橋は僅かに5ヶ処のみだった。これ等を上流から憶いだすと次の様になる。
・藻岩橋
 明治14年に明治天皇が道内ご巡幸の際、仮橋が架けられたが間もなく流出し、以降は
「渡船」だったが、昭和7年に「渡船場」のやや上流に新設されたRC橋。長さ150米、幅
5米で、子供の眼には随分立派なものだった。
−今では旧渡船場の上に新橋が架けられこの橋は歩行者専用橋として、残存している。
・幌平橋
 昭和2年に私費で架けられた木橋。
 長150米、幅9米。私が一中へ通った5年間
(昭和13年〜18年)頃は老朽化が進み、あち
らこちらは穴ポコだらけだったが、この穴から下
をのぞくと、秋口には鮭の遡上が見られたもの
だった。
・豊平橋
 安政4年というから150年程前に逆上るが、
時の徳川幕府は蝦夷地開発のため銭函から室
蘭迄の道路開発にのりだし、豊平川の渡船場は
志村鉄一と吉田茂八に守らせた。間も無く「御維
新」となり、明治政府は幕府の計画をそのまま引
継いで、本府は「札幌」と定め、中州と中州をつ
ないだ丸木橋を架けたのが明治4年というから
やはり100年以上も昔のことだ。しかしこんなも
のはすぐ流出してしまい、その後何回か架け替え
が行われたが、昭和3年に恒久的な鉄橋となった。
 上を電車が走り、重厚な3連のアーチは、子供
の眼にも実に堂々たる風格ではあった。
・一条橋
 大正12年、私の生まれる2年前だが、「遊廓」
が「薄野」から「白石」に移った。市内から直行で
きるように私費で架けられた木橋がこれで、長さ
182米、幅9.5米。幌平橋よりはずっと手入が良
かったように記憶する。
・雁木橋
 実はこの橋は無かった。橋は無かったが「橋脚」
だけはあったのだ。「橋脚」が完成したのが昭和
12年で、橋が架けられたのが昭和34年だから、
「橋脚」は22年間も豊平川の中に淋しく、つっ立っ
て居たことになるのだ。
 最後の5橋目が「東橋」であり表題の「東橋通り」に関連することになる。
                 ◆
 某夕、小林信太郎さん(支部顧問)と「鳥陣」で一杯やっていた。
「鳥陣」は北3西2の西向き、「かに本家」の南隣にある。
 親父は堂々たる恰幅だが若き日には文学青年だった由。この親父を交えて3人で古い
札幌の憶出話しに花を咲かせているうちに、この原稿が出来上がったわけだ。
 「鳥陣」は安くて美味い。ランチタイムには親父の神さん手作りの「陣カレー」をやっている。
手作り故に「限定販売」だからOG連中がわっと押しかけてすぐ売切れとなるが、グルメ女
性の秘密の店になっているらしい。
                 ◆
 さて、私達の記憶に残る「東橋」は今の場所から150米程上流に架けられた木橋だった。
そこでこの橋の歴史を調べると次の様になっている。
・明治32年というから90年程昔のことになるが、都心部から白石・江別方面へ通じる道
路、即ち現在の国道12号線の為に架けられたのがこの橋で中州をつないで約40米の
釣橋と約78米の木橋とで構成されていたという。堤防らしいものは一条橋ぐらい迄だった
ので川幅がぐっと拡がっていたので延長は豊平橋より半町(50米余)は長かったのだ。
場所は札幌の「東」にあり大正天皇が皇太子(東宮)になられた年に因んで「東橋」と名
付けられた。この当時の状況を古い地図によって復元すると(図−1)のようになり、苗穂
駅の南側一帯は大きな沼地となっている。そうして昭和4年には殆んど流失してしまった。
これが第1代目。
 架けられていた場所は、ほぼ現在の「東橋」の位置と同じだったと推察される。
・昭和4年に1代目は殆んど流出したので2代目は約150米上流に木造だが36米スパ
ンのトラス。15米の桁橋5連の構成で架けられたが、この2代目の事となると「鳥陣」に
おける3人衆の話しは俄然熱を帯びてくるのだ。
・第2代目は終戦後の昭和24年の洪水で一部が流出し、これを検査に来た駐留中のア
メリカさんが、中州に発展?した「サムライ部落」を見て、あれは何だ。早速取りはらえ!!
等のナンヤカンヤの末、(1983.3号。「サムライ部落の巻」に詳述)、同年10月にRCの
永久橋が150米程下流で着工された。要は「1代目」の場所に復したことになる。
 この3代目は昭和44年に下流側が拡幅されて今日に至っている。
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 さて第2代目が架けられたのが昭和4年のことだから、年配者にはこの2代目にまつわ
る憶い出が多く残されており、札幌文庫18、「札幌の橋」には現市議の関口さんの手記
が載せられている。(図−2)は3人衆の昭和一ケタ時代の憶い出をまとめたもので、以
下の各項はこれを参照しながら読んでいただきたい。
(1)豊平川の堤防は右岸(白石側)はかなり延びていたが、こちら側は、2代目の東橋を
すぎるとすぐ終って、その先は畔道に毛の生えた程度の土手だったので洪水の時はすぐ
切れて、昔からの沼地はまだ残っていた。
 北1条通りを東に進み「東橋」の手前の左手(北側)の「渡辺パイプ」から「岩田建設」の
裏手にかけては現在でも地形が凹んでいるが、この沼地の痕跡である。
(2)北1条通りと堤防とは、どんどん近よって来るが最後の接点となる三角地は現在公園
となっている。この三角形の底辺、即ち札幌側のあたりが、2代目の位置だったと思われ
る。また三角公園と現「水道局」の庁舎にはさまれた部分には物資輸送用の「馬つなぎ
場」があって、現存している数条の小路はその名残りである。
(3)2代目を渡ると、江別街道とは当然150米程の喰いちがいがあるので右岸の堤防を
歩いたわけだがこれを「本筋街道」又は「本筋通り」と称し「一銭店(駄菓子屋)」等が並ん
でいた。
(4)苗穂駅前の北3条通りと、2代目「東橋」を結んだ南北2丁程が「東橋通り」で、現在
は拡幅されてその名残りも無くなってしまったが、当時はレッキとした道路だったのだ。
 この「通り」に面して、「中山鉄工場」・「松永写真屋」・「ノブタ布団屋」・「松屋」等が養び、
附近には「オヤキ屋」とか「アベ床屋」があり、通称「神寺」が「鳥陣」の親父の家だった。
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 「東橋通り」は忘れ去られて久しい。
 しかし「三角公園」の側にある「バス停」の名称が今でも「東橋通り」となっている。
 かくして、
・虎は死して皮を残し、
・人は死して名を残し、
・「東橋通り」は死して「バス亭」 にその名を残しているのだ。