その49
     覚書その一 (1993. 5.bP)

 私がこの札幌古地名考を寄稿し始めたのは昭和51年の第3号からだった。
 従ってもう17年間も書き続けてきたことになる。
 「支部だより」は1年に3回発刊されるので、テーマも50件以上にものぼったことになる。
 そこで、今回は(その1)からを振り返ってみたいと思う。
 と、云うのは幸にも愛読者に恵まれて、「あそこの、あの地名についてに教えてもらいた
い」等のご希望が時々事務局に届くからだ。
 しかし、そのご希望は、既に寄稿済みのが多く、このあたりで第1稿から順を追って述べ
てみるのも一興だと思われる。
 ところで、「札幌原人」とは何者か?は、暫くの間は疑問とされて来たが、何時しか身元
はバレてしまったようだ。
 そもそもこの「古地名考」を書き始めた当時、私は建築指導課長を兼ねていたわけだが、
今迄僅か6頁だった「支部だより」の横書きを読みやすいタテ書きに改め、16頁に一挙贈
頁した時の、「穴埋め用ピンチヒッター」としての寄稿が、そのスタートであったことを、今だ
から白状しておこう。
                      ◆
(その1)「魔の踏切」の巻
 石山通りを北上してJRと交叉する部分をそう云ったが、今やアンダーパス化されて、踏切
は無くなってしまっている。(1976.12)

(その2)「軍艦岬」の巻
 石山通りを南下して、藻岩山の尾根が断崖状に道路ギワに突立っている部分を云う。今で
も聳え立っている。(1977.4)

(その3)「花魁渕」の巻
 現在の「藻南公園」の部分。簾舞にダムの出来る以前は、豊平川が此所は大きな渕となっ
ていたのだ。(1977.10)

(その4)「烈々布」の巻
 現在の「栄町」一帯の古い地名。「丘珠空港」へ行く途中、神社だけはこの名称で残ってい
る。(1978.4)

(その5)「軽川」の巻
 現在の手稲駅付近の旧称。駅名も勿論「軽川」だったし、山小屋スタイル駅舎はユニーク
なデザインだった。(1978.8)

(その6)「北茨城」の巻
 現在の「澄川」一帯の旧称。(1978.12)

(その7)「岡橋」の巻
 西5丁目通りがJRと交叉する部分が「陸橋」となっていた。JR高架に伴い、解体されて今
や跡片も無くなってしまった。(1979.3)

(その8)「浦川通り」の巻
 明治初期、札幌都心部の条・丁目のメインストリートには、いろんな北海道の地名が付け
られていた。ちなみに「浦川通り」は現在の東2丁目通りの旧称だ。(1979.8)

(その9)「三十三ヶ所」の巻
 藻岩山の事だ。登山道には今でも1番から順に33体の佛像が安置されている。(1979.12)

(その10)「札幌飛行場」の巻
「丘珠空港」のことではない。
 現在の「北高」一帯がそうだったのだ。「白楊小」の西側。北24条通りに面して、RC造の
武骨い2基の門柱が残されている。(1980.4)

(その11)「斜め通り」の巻
 現在も北6東1附近から北10東11にかけて残っている。札幌都心部から旧「元村」に到
る。公道の第1号。(1980.8)

(その12)「大友掘り」の巻
 旧「元村」から札幌都心を結んだ運河。陸路が「斜め通り」だったわけだ。(1980.12)

(その13)「げんちゃんスロープ」の巻
 現在の「旭山公園」一帯の旧称。(1981.4)

(その14)「大門通り」の巻
 豊平から菊水にかけての1丁目と2丁目の境で、36号線から12号線までの広道の旧称。
「白石遊廓」華やかなりし頃、道路の両側には巨大な石の門柱が立っていた。(1981.8)

(その15)「十二軒」の巻
 現在の「宮の森」一帯の旧称。(1981.12)

(その16)「八垂別」の巻
 現在の「川沿町」一帯の旧称。(1982.4)

(その17)「アンパン道路」の巻
 月寒と平岸を結んだ旧道。今でも屈曲しながらその面影は残されている。(1982.9)

(その18)「大学の川」の巻
 伊藤邸のメム(湧水)を水源として北大構内を屈曲しながら流れていた小川。アイヌ名は
「サクシコトニ川」。(1982.12)

(その19)「新川」の巻
 西区と北区の境を流れる「新川」のことではない。札幌都心部の西5丁目通りを南から
北へ流れていた川だ。だから道庁の正門前には石橋が架けられていた。(1983.5)

(その20)「鯨の森」の巻
「大通公園」の西9丁目には大樹が比較的多い。それがこの旧名の名残だ。(1983.9)

(その21)「さむらい部落」の巻 豊平川の東橋付近。河川敷内にあった特殊部落。(1983.12)

(その22)「温泉山」の巻
「旭丘高校」から沢を1つ越えた高台に大正の末期、「札幌温泉」と称する現代で云えば
「レジャーランド」のハシリが出現した。温泉電車も走った。しかし今やその名残は更に無し。
「温泉山」の古地名は、昭和10年生れ位までは、かろうじて覚えている筈だ。(1984.4)

(その23)「なまこ山」の巻
「西高」の附近に今もあるが、すっかり都会化して往時の面影は残っていない。(1984.8)

(その24)「円山村界」の巻
 北1条から北3条にかけて、西22丁目通りは、かすかにその面影を残している。屈曲して
いるのは村界の小川が流れていたからだ。(1984.12)

(その25)「紅葉山」の巻
 北区と石狩町の境に横たわる砂丘の旧称。今でも残存するが、新琴似からこれを越える
と「花川団地」となる。(1985.4)

(その26)「大根道路」の巻
 大根の名産地だった新琴似から、札幌へ大根馬車が専ら往来した道路。西2丁目通りが
それだった。(1985.8)

(その27)「逆さ川」の巻
「月寒川」が北郷から米里をへて、豊平川へ注ぐあたりは、増水した時、逆流したので、この
名称がつき、こ附近の古地名でもあった。(1986.12)

                        ◆
 以上が昭和61年の12月号までの分だ。昭和61年と云えば、7年も前のことだから、それ
からまた延々と書き続けたことになるが、札幌生れの札幌育ち、「札幌原人」のオッサンもと
うに還暦を超え、今やタネ切れになってきた。何か札幌市内の地名で「?」という事があった
ならば、遠慮なく事務局にご一報頂きたい。
 私の文章は博士論文ではない。私の記憶と古老の憶い出話のミックスなのだ。その古老も
数少なくなってきた。早くまとめなければ、札幌における「古地名」も記録に残ること無く消滅し
てゆく運命が間近に迫って来ているからだ。