その54
     「手稲梅園」の巻(1995. 5.bP)

  はじめに
 明治政府は、維新革命が成功するやいなや、明治2年には「開拓使」を発足させ、札幌を
首都と定め、猛然と「北海道開拓」に取りかかった。
 と、いうのは、「蝦夷ヶ島」は「北海道」と改称されはしたものの、「和人」が居を構えている
のは海岸線の「点」だけで、1歩内陸部に入ると「先住民」が原始的な生活を太古から続け
ているだけの、ほとんど「空き家」同然の状態。
 これでは、いくら「わが領土なり」と主張しても、「ロシヤ」などがゴリオシにやって来たなら
ば、ひとたまりもない、極めて不安な状態にあったからだ。
  農民の集団入植
 当時、土地は大地主に占有され、大部分の農家は「小作人」として貧困にあえいでいたの
で、「自作農」になるため、苦労は覚悟の上で、一旗揚げようと、渡道を希望するものが多か
ったので、新政府は「渡りに舟」と、移住を奨励した。
 しかし彼らにしても望郷の念は止み難く、移住地には故郷の名前をつけることが多かった
ので、札幌近郊でも、次のような地名が今でも残されている。
「福井」=福井県人
 @西区西野の奥に現存する。
 A東区の篠路では「福移」となって残されている。
「山口」=山口県人
 西瓜で有名な手稲区山口もそれ。
「信濃」=長野県人
 現在この地名は残されてはいないが、厚別区厚別中央には「信濃小」と「信濃神社」が現
存する。
 道内に目を転じると。
「鳥取」=鳥取県人=釧路近郊
「新十津川」=奈良県人=空知管内
「北広島」=広島県人=石狩管内
 等、枚挙に暇がないくらいだ。
  武士団の集団入植
 一方、頭を悩ませたのは、大勢の「賊軍」となった連中の処理だった。
 何しろ「最後の一兵まで」と抵抗した「会津」や「奥州越列藩同盟」を結んでその盟主となり、
徹底抗戦を叫んだ「仙台」などには、戦後には「白川(福島県)以北は一山一文」と、極めて
冷酷な処置を下した。
 「会津藩」は28万石から3万石に削られ「斗南藩」として、青森県の野辺地付近に飛ばさ
れた。
 「仙台藩」は名目62万石、実質102万石の大藩(大会社)で、支藩(支社・支店)も多かっ
たが、これが何と1/4の28万石に削られたので、本社だけは残ったものの、支店(支藩)
は総て閉店しなければならなくなった。
 そこで支店長(支藩主)は社員(家臣)を養うため、「北海道」への移住を申し出る。「新政
府」として、不平不満の浪人(失職社員)が大勢出て、いつ爆発してもおかしくない状態を危
惧していた矢先だったから、北辺の武備と開拓とを並行されるためには、一石二鳥とばかり
に、早速許可を与える。
 かくして、武士団の集団入植も開始されたのだ。
                      ◆
 [ 亘理藩 ]
 23,850石が、130石に削られてしまったので、藩主の伊達邦光は率先して、明治3年を
第1陣、その後9回にわたり計2,681名を現在の「伊達市」近在に移住させたが、幸いにも
気候温暖で、大成功であった。しかし、「先住民」も大勢住み着いていた土地だったから、彼
らを追い出した歴史的事実を忘れてはいけない。
 なお、故郷に残留した家臣団も、明治8年から9年に掛けて、「屯田兵」として、「琴似」及び
「山鼻」に移住してきた。
 [ 角田藩 ]
 21,380石が倒産したので、藩主の石川邦光は51人の家中と「室蘭」に入植したが、ここ
は土質が悪かったのでその後61戸212人を追加したものの、苦労の末、現在の「栗山町角
田地区」に再入植したのは、明治20年過ぎになった。
 [ 岩手山藩 ]
 この藩は論外にも、14,640石がたった65石に減封されたので、藩主伊達邦直は家臣
736戸を養うため、空知郡「当別」に入植したが、ここも土質が悪くて、苦心惨憺した経過は、
本庄睦夫の「石狩川」にまとめられている。
 [ 白石藩 ]
 18,000石だったが、この藩の藩祖は、伊達政宗の腹心の部下だった「片倉小十郎」で、
文武に秀でた人物も多く輩出したので、「仙台藩」の中では、もっとも重んじられた「支藩」の
1つだったそうだ。
 しかし、他の「支藩」と同様の窮地に追い込まれたので、時の藩主、片倉邦憲は率先して、
明治3年6月に「幌別」に移住してきたが、開拓には不向きな土地だったので、再移住を決
意した。
 「第1陣」の約400名(104戸)は札幌近郊の「白石」だったが、高い木によじ登って目印を
つけ、真っ直に原始林を切り開いていったのが、現在の国道12号線。
 今の中白石の陸橋から「白石神社」までの4q程の間に、この104戸が割り当てられたわ
けだが、故郷の地名「白石」は「札幌市白石区」として固定している。
 一方、「第2陣」約200名の再移住先は「上手稲」だった。
 旧国道5号線の「発寒橋」を渡り、500m程行ってから、現在「札樽高速」とクロスするあた
り迄の一帯だ。
 2手に分かれたのは、リーダー同士の仲が悪かったためと伝えられている。
  白石藩士の上手稲開拓
 前置きが長くなったが、表題の「手稲梅園」は彼等「旧白石藩士」と極めて関係が深いから
だ。
 ところで、彼等は2斑に分かれ、別々に再入植したことは、すでに述べたが、「白石斑」は、
おとなしく帰農しようという連中。
 一方、「上手稲斑」は、「今にみていろ、薩長の面々に負けるものか!」と、家庭では旧態依
然たる武家生活を続け、負けん気のつよく、ある種の理想に燃えた、気骨あるインテリの連中
だったように思われるのだ。
 とにかく、彼らは、これからも「学問第一」と考え、再入植するとただちに子弟のために「時習
館」と称する学問所を立てたのが、現在の「手稲東小」の前身。その跡地には「手稲記念館」
が立てられ、「記念碑」もたっている。
 彼らは、開墾にも精を出したが、「稲作」は最初からあきらめていたので、雑穀を手がけた。
またケプロンが果実の栽培を推奨し、
「開拓使」もアメリカから苗木を取り寄
せて分配したので、葡萄・洋梨・杏・す
もも・桜んぼ・グズベリ・カリンズ等種々
のものの栽培にも挑んだようだ。
 2.5町歩(2.5ha)の「りんご園」も
作られたが、日本人の食生活上「梅干
し」は不可欠なものなので、「梅園」も作
られたに相違ない。
 風流を解した彼等だったから、「池」を
掘り、傍らには「あづまや」を建て、点景
として、故郷から取り寄せた「黒松」の苗
も植えたのだった。
 大正12年(1923)発行の「琴似兵村誌」には、「果実の部」に、「梅」として、樹数230本、収穫高12石、単価28円、価格336円の記録が残されている。
 現在、店頭に並ぶ梅の実には、小型で色の青いのと、大型で黄色の2種類あるが、前者は
本州産、後者は道内産だ。道内産が大型で黄色なのは、本州種に「杏」を掛け合わせて本道
の気候に適合する様に「品種改良」されたもので、「手稲梅園」における樹種は勿論、「本州系」
であったに相違なかろう。
 だから、残念ながら本州の「梅」は「寒さ」と「病虫害」には極めて弱く、その対策に出費がか
さみ、ついには採算割れで放置されるに至ったのだろう。
 それでも、昭和20年代の後半頃迄は、その痕跡が十分に残されていたし、付近のバス停も
「手稲梅園」だったので、つい最近までは十分通用していた「地名」なのだ。
 久しぶりに先日、自転
車で行ってみて、ここぞ
と思われるあたりのバス
停は、すでに「西町北17
丁目」という何の変哲も
無い名称に変っていた
が、「手稲東」が「西町」
と改称された時、自動的
に変えられたものだそう
だ。
 また、「梅園跡地」も工
場や民家でかなり狭めら
れてはいたが、それでも、中央付近には、その痕跡の空き地が残され、そこには数本の「老松」が寂しげに枝を震わせているだけだった。
 現在、この地域には、「旧白石藩士」の子孫の農家は殆ど無く、むしろ、「医師」や「弁護士」等一流の人物として活躍して
いる人が多いのは、彼等の理想が今開花していると言うべきかもしれない。