稚内市の歴史的建造物たち
The historic buildings of Wakkanai-city
稚内市歴史まち研究会

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竃k見商会社屋・佐賀宅

1911年(明治44年)竣工
1685年(貞享2年)松前藩が宗谷場所を開設以来、請負の権利の売買が歴史を繰り返し、1888年(明治21年)に北見商会が設立された。 本店は松前群福山に置かれ、函館に代理店、稚内村に支店を置いた海産物商であった。
1894年(明治27年)に道北最古の株式会社の1つとなる。
この社屋は稚内大火直後の1911年(明治44年)に建設されたと考えられる。
当時は枝幸からその洋風な外観を見学に来たとも言われている。

北防波堤ドーム【北海道遺産】

1936年(昭和11年)竣工
海上からの高さ14m、円柱72本、長さ427m
道庁技師 土谷実氏設計。他に類を見ない構造形式で、優雅さ、雄大さ、新境地を開いた画期的な工法が当時高く評価された。
1970年(昭和45年)の補修、1978年(昭和53年)から2年掛けた全面改修、1997年(平成9年)から5年掛けた耐震補強工事が行われ、2001年(平成14年)には北海道遺産に認定された

声問中学校体育館(現 石崎食品第二工場)

1953年(昭和28年)竣工
旧声問中学校は1947年(昭和22年)に稚内町立稚内中学校声問分校として開校、翌年声問中学校となる。 1953年(昭和28年)に当時の煉瓦造による耐寒と耐火を兼ねた市のモデルスクールとして現在の位置に新築された。
1970年(昭和45年)に稚内市立東中学校に統合され廃校に、1984年(昭和59年)火災により校舎を焼失し、体育館が残る。
現在は石崎商店の第二工場として利用されている。

旧海軍望楼【稚内市有形文化財】

1902年(明治32年)竣工
国境の備えとして旧帝国海軍が建設。 当時最強といわれたロシアのバルチック艦隊が、宗谷海峡、津軽海峡、東シナ海のどこかを通過し、ウラジオストクに集結するかを察知することは、戦略上極めて重大であったことから、同望楼の海上監視にも、任務の重要性が課せられていた
日露戦争の終結に伴い望楼の使命は終わったが、1922年(大正9年)沿海州で起きた尼港事件では無線通信基地として、太平洋戦争では対潜水艦監視基地として使用された。
1968年(昭和43年)市の有形文化財に指定された。

旧秋田木材発電所(現 西岡牧場倉庫)

1913年(大正2年)竣工
1903年(明治43年)秋田木材は幕別川流域の国有林払い下げを受け、伐採林を声問川口に集材して原木を本州各地に送り始める。 1912年(大正元年)に声問に木工場を新築し、翌1913年(大正2年)火力発電所を設置する。1914年(大正3年)からは、同発電所から稚内市街へも電気が送電されたが、1925年(大正14年)秋田木材は閉鎖される。※1927年(昭和2年)の記述もある

旧海軍大湊通信隊稚内分遺隊幕別送信所庁舎

1937年(昭和12年)竣工
1902年(明治35年)大岬(現 宗谷岬)において運用開始された海軍望楼にその起源を辿ることができる。
1928年(昭和3年)から2年掛けてクサンル(現 稚内市緑2丁目3)に局舎を移し、1931年(昭和6年)からは幕別(現 恵北)に機能を分化、1937年(昭和12年)には「稚内海軍通信隊幕別分遺隊」となり終戦まで使用することとなる。
真珠湾攻撃の命令電報「ニイタカヤマノボレ」を中継したとされている。
道北最大級のレンガ造建築物である。

旧瀬戸常蔵邸

稚内の水産業を担った故瀬戸常蔵氏の邸宅と番屋であり、その規模と戦後の木造住宅にしては稚内において価値の高い和風建築である。
 平成23年度から建物の補修工事が始まり、稚内の開拓からの歴史を保存継承されていくことが期待されている。