その15
          「十 二 軒」の巻(1981.12.bR) 

 地下鉄東西線の終点「琴似駅」の一つ手前が「二十四軒駅」。
 又、国鉄の「琴似駅」より下手(しもて)の方向には「八軒小」、「八軒中」等があり八軒の
地名は残存しているが、「十二軒」という地名もあった事は案外、忘れ去られている。
「何軒」という様な情緒風情に乏しい地名がつけられた由来は、と、なるとやはりそれなり
の故事来歴はある。
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 明治8年(百年以上も昔のことに
なるが)、第一回目の「屯田兵」が
琴似に着任したことはご承知のと
おりだが、翌明治9年には第二回
目の240戸、1114名が山鼻にや
って来た。
 やって来たのは良いが既に、この
あたりには先住者が点在していた。
その処置をどうするか。これが問題
になった。先住者と言えば「アイヌ」
と連想し勝ちだが彼等はレッキとし
た「シャモ」だったのだ。
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 さて、明治政府により「北海道開
拓使」が設立されたのも、ご承知の
通り明治2年のこと。札幌をその首
都とすることも決定していたが、当時本道の門戸であった函館と札幌を直結する道が無
かった。しかも政府には維新の争乱に巨額の軍費を要したので北海道開拓にまで支出す
る余裕はない。この窮状を察した東本願寺本山は、本道開拓の事を朝廷に出願し、次の
様な条件でこれが許可された。
 一、道路を開さくすること。
 二、内地から農業移民を多数移植して開墾させること。
 三、農民を定着永住させるため、宗教的激励と慰安を与えること。
 これに基いて現如上人(当時19歳)は明治3年2月、百数十名の開拓隊を引率して京都
を出発、7月7日には函館に上陸、その後「道路開さく隊」は実に延5万5千余人、1年有半
の年月を要して翌4年7月に現在の「中山峠旧道」を完成したのだった。当時はこれが「本
願寺越え」と呼ばれていたのもこの様な理由からだった。
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 一方、「寺院建設隊」は別途札幌へ到着し、10月には粗末ながらも小堂を建立したがこれ
が札幌における「お寺」の第1号。そして10万坪の貸し下げを受け、いわゆる「本願寺移民」
として主に新潟県から40数戸を移住させて、翌4年からはこれを「辛未一の村」と呼ぶことに
なった。明治4年は「辛未(かのとひつじ)」であり、「一の村」と言うのは札幌地域における第
一番目の村だったからだ。
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 明治4年から足掛け5年間、彼等は「ユク・ニクリ」(鹿の多い林)であった山鼻の原始林に
開拓の鍬を振るったわけだが、この村民こそ実は先住者だった。明治9年には前述したよう
に「屯田兵」が大挙してやって来ることになるや、民間(・・)事業の悲しさ、問答無用とばかり
「強制疎開」させられ、あちらへ「八軒」、こちらへ「二十四軒」と散りじりに別れ住まざるを得
なくなった。
 ところで「十二軒」とは現在の「宮の森」一帯のこと。即ち国道5号線を境として、市バス「琴
似営業所」の向い側あたりから、神宮や荒井山のすそにかけての地域のレッキとした「字名」
だった。しかし昭和5年から始まった「宮様スキー大会」にちなんで、神宮周辺が「宮の森」
と呼ばれだし、遂に昭和18年5月には琴似村字十二軒は琴似町字宮の森と改正され、昭
和30年に札幌市に併合された頃から、この悲劇を背負った「十二軒」の地名も、人々の記
憶から消え去っていったようだ。
 十二軒の人々の行方は、今となっては探し様もないと言われている。
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