その20
           「鯨の森」の巻(1983. 9.bQ)

 「鯨の森」ではなく「鯨ヶ森」だと異論をとなえる人がいるかもしれないが、このシリーズは
総て、私の記憶だけで記しているので「鯨の(・)森」で押し通すことにする。
 そんなおかしな名前の森がこの大札幌のどこにあるのかと問われて、躊躇なく答えられ
る人は先ず少ないだろう。
 何のことはない、この森は都心部も都心部、ドマン中にある。詳しく云うと、大通公園の
西9丁目。広々とした芝生に花壇とい
ったパターンの公園の中でこの一角
にだけは開拓時代の生き残りの巨木
が亭々としてその影を落している。遠
くから眺めるとその姿が鯨の「背中」
に似ているので、人呼んでこの一角を
「鯨の森」と称するにいたった。−と、
伝えられているが真偽の程はわから
ない。
          ※
 明治2年に島判官は大通西4丁目
に仮事務所を建築し、7年の市街地
測量に当っては、南の商業地域と北
の官庁地域との間に58間の広路を
設けて、火防線としたのが今日の「大
通」だが、1丁を60間とした都市計画
が、どうして大通だけは2間たりない
58間巾にしたのかがわからない。そ
れはそうとして大正8年には道路法
によって市道の認定を受けているか
ら、「大通公園」と称する部分は南北
の道路を含めて、実に巾員100米以
上の「公道」であることを知る人は案
外少ない。そうして終戦までは大通
「逍遥地」であって俗に大通公園と呼ばれていたにすぎなかったことを知る人も少なくなった。
          ※
 さて、大通の中で「鯨の森」にだけどうして開拓時代の巨木が残っているのかという疑問
がおこるわけだが、恐らくはっきりと説明のできる人はいないと思う。そこで私なりの推理
をはたらかせてみよう。
 (1)私の父が札中(・・)(一中→南高)の生徒だった明治末期には商店街の南1条通りも
西8丁目の「三吉神社」から先には殆んど人家が無かったそうだ。
 (2)父とあまり年の違いの無かった市政功労者の木下三四彦氏が生前私に、「師範学
校(現教育大)にかよっていた頃には鯨の森の樹影には宇都宮牧場の牛が何頭も寝そ
べっていた。」と、語っていた。
 (3)早い話が人が少なかったのだ。民家もお役所もないところに「防火帯」を作っても意
味がない。だから開拓使が西1丁目から西12丁目までは「火防線」としたところで、せいぜ
い6,7丁目までは木を伐り払ってそれらしく整備はされたものの、それ以西はホッタラカシ
にされていたものだろう。
 一方、古図によれば西10丁目から12丁目にかけては「練兵場」となっている。練兵場で
ある以上は何も無い「広場」でなくてはならず、要するに西8丁目から9丁目あたりは、東と
西から伐採が進んで来ても、これから先はマアいいだろう。と、いうように何んとなく取り残
されて、現在のたたずまいが生じたものと、思われる。
              ※
 四季を通じての観光名所、又、市民の憩の場としての大通も戦争中は哀れだった。いたる
ところに防空壕が掘られ、「花より団子」で、トーキビ、ゴショイモやナッパが植えられ、ろくに
伸びないうちにカッパラウやつもいて、夜警をつけるとかなんとか全く、あさましい世相でもあ
った。
 終戦になると米軍が接収してしまった。接収はしたが西3丁目、駅前通りに面して、というこ
とは西向きにだが、木造シロペンキ塗りの小さなチャペルを建てたきりあとは何もしない。だ
から畠の跡は黄塵万丈の空き地となっていたこともあった。 明治34年に設置された開拓使
長官黒田清隆の銅像はこの有為転変をいかなる感慨で見おろしていることだろう。
              ※
 大野先生が先生らしい最後で急逝された。先生が拙稿の愛読者で「札幌原人」とは何者か
と探索されて、間違についてご叱正くださったことが、私の大きな憶い出の一つとして残ること
だろう。祈ご冥福。