その21
           「さむらい部落」の巻(1983.12.bR)      

 「さむらい」は「侍」であり「武士」であって、これはこれなりに立派な名称である。
 しかし、友人仲間で「あいつは、いいサムライだ」等とうわさし合う「サムライ」には
いささかニュアンスの異なった意味合が込められている。
 どうも、やる事、なす事、我々とは次元の違う世界の人間だ。変人だけれどもまた、憎
めないところもあるなあ、と云った軽いヒヤカシ、悪く言えば「侮べつ」も込められている
ようだ。
 ところで本州の山奥にいくと、平家の落人部落と称するものがあり、九州椎葉山峡や
四国祖谷渓のそれ等は有名だが、その言い伝えが事実だとすれば当時の土着の人々
にしてみれば、たしかに、
 (1)次元の異なる社会の人々が、
 (2)なにやら集って、おかしなことをやっているが、
 (3)別に悪さをするわけでもないし、
 (4)まあまあ、当らずさわらずでいこう。
 (5)それにしても変った連中だなあ。
と、云った具合で、これは本当の「侍部落」であったに違いない。
「部落」とは行政的には市町村のうち一番小さい「村」にも達さない僅かな世帯、家屋の
集合体の通称らしく、本道では「開拓部落」等とごく普通に使われてはいるが、これが本
州、特に関東から先では口に出すのがタブーとなっている。「同和問題」にからまる「特
殊部落」に触れることになるからである。
 それはさておき、我が札幌市における「さむらい部落」は豊平川は「東橋」付近の両岸、
河川敷の中にあって、戸数は70
〜80?位の集落だった。どうして
「?」かと云うと、大はかなりの2
階建から、これに寄り添う様に下
屋にしたもの、自分だけ寝れれば
良いという程度のホンノ小さな掘
立小屋までが雑然と立ち並んでい
たのだから、実数は、となればど
うしても「?」とならざるを得ないわ
けだ。
        ◆
 河川敷は大てい国有地だから、
使いたければ、これを管理してい
るお役所から許可をもらい、何が
しかの地代を納めるのがルール
だが、どうも無断で此所に住み着
くものが昔からいたらしい。古い
「河川図」には所々に「無頼居住」
という書き込みがあるが、「定職
の無い、ならづ者が、住み着いて
いる」という意味では正しいのだ
ろうが、どうもひどい表現をしたも
のだ。
 わが「さむらい部落」もお役所の
目から見ると「無頼の徒」が寄り
集って、いつしか部落を形成し、ど
うもこれは困ったものだ。というこ
とになろう。とは云うもののこれと
いう対策もほどこさないままに昭和も25,6年頃だったろうか、「進駐軍」が、あれは一体
何だ。見苦しい上に不衛生だ。人権尊重の見地からもあんな危険な地域に住まわせると
いうことは重大な問題だ。福祉行政はどうなっているのかと云い出した。
 泣く子と地頭よりも恐ろしい進駐軍命令だから、この時は部落をあげて一勢に堤防を越
えて「陸地」に集団移動した。お役所は土地を都合してくれただけだから家屋はすべて手
造りで、実に芸術品とも云うべき種々雑多なものが立ち並んだ。これが第2代目の「さむら
い部落」となった。
 この2代目「さむらい部落」も「札幌オリンピック」に先だって、道路工事の為、立ちのきを
余儀なくされることになって、今では影も形もなくなってしまった。
             ◆
 これから先は支障が出てくるので書くのを止めるが、とにかく、豊平川畔にあった「さむら
い部落」と愛すべき乞食だった「サダ」の事を懐かしむ人々の年齢は、すでに50歳を超えて
しまったものと思われる。