その25
          「紅葉山」の巻(1985. 4.bP)

 札幌市教育委員会の編集した「さっぽろ文庫」というブルーの表紙のシリーズ本があ
る。一般書店でも扱っているので、隠れたベストセラーとされている。この中に「札幌の
山・峠」を述べた章がある。中央区・豊平区・南区・西区についての記載はあるが、「北
区」については何もない。ない筈で、鉄道以北の低湿地帯だった地域に「山」のある筈
がない。実際に現在でも「茨戸」付近は海抜0米だ。
 ところで今回取りあげた「紅葉山」は厳然として、この山のある筈の無い「北区」に「山」
なのである。
山の高さは海抜で表すことはご承知のとおりだが、「円山」の高さは226米ある。ところ
が麓の部分は海抜60米程だから差し引きすると180米位の小山にしか感じられない。
ところが海に浮んだ島が馬鹿に高く感じられるのは、海抜0米からのナマの高さだから
だ。
 「紅葉山」は下手稲の「新川」に架けられた「新川橋」−現在、「手稲高校」が建ってい
るあたりから、延々茨戸にかけて連らなっていた18.5米の丘陵であったが、何しろ海
抜0米地帯だから、正味15米位の峰々でも結構、貫禄はあった。何しろ地盤自体が砂
丘だから録な樹木は生育しない。全山背の低い柏の木々におおわれていて、秋には鮮
かに紅葉するが、葉は冬になっても枯れ落ちない。茶色になってもカサコソとしがみつい
ているので、一面が銀世界になっても、この連らなりだけは、まだ紅葉が続いているよう
に見える。−だから「紅葉山」、と、なったものらしい。
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 昔々。石狩平野は日本海と太平洋を結ぶ「海峡」だったそうで、勇払原野・ウトナイト湖
(トはアイヌ語で湖や沼のことだからト湖と云うのはおかしいと思うが)、茨戸海抜0米地帯
はその名残だそうだが、地盤の隆起か、海水面の沈下か、とにかく海岸線が徐々に後退
していって現況となってしまった。この過程で今から6千年程前の海岸線は「紅葉山」付近
だったというのだが、この話は成程とうなずける。
 銭函から石狩新港にかけて、海岸に出ようとして車を走らすと必ず小高い砂丘に行き当
る。そうしてこれを乗り越えるとダラダラとした砂濱だったり、ストンと波打ち際だったりする
からだ。
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 掲載の地図は、北海道廳発行(昭和17年3月調製、陸地測量部)という戦時下の物資
不足な為、粗悪な紙に印刷されたもので、防諜上縮尺の書入れのないボロボロのシロモ
ノだが、物好きな弟の所有物の一部分である。
 今から20年程前、長男が小学生になるかならぬかの頃、琴似の我家からスバル360
で、「七線濱」に春先はよく鰈釣りに行ったものだが、国道5号線を小樽に向い軽川(現手
稲駅)を右折して花畔に向うと、右手に「新札幌団地」がボツラボツラと建ちだしていた頃で、
その後には「紅葉山」はたしかに連らなっていて、そのまた後には「藻岩山」が霞んでいた
ものだった。
 さて、今は。となるとどうもアヤフヤなので、この古地図を片手に「紅葉山探訪」に出掛け
たのが3月の17日のことだった。
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 先ず「新川」ぞいに右岸の堤防の上を川下に向った。この道は海水浴時期には大混雑と
なるが今では悠々。新川橋に近付くと、右手前方に古地図には「砂山」と記されている「紅
葉山」の西端らしい面影が迫ってきた。新川橋の100米程手前に右折する小径がある。ど
うも古地図にも出てる「砂山」の尾根づたいを走る道らしいので強引に進入してみた。たし
かに両側の樹々に古の面影は残っている。しかし間もなく行き止りとなり左折してしまった。
正面は未だ白雪におおわれてはいるが、小高い部分が地図上の10.6米地点に間違なさ
そうだ。それからは「紅葉山」と思われるつらなりを海側から札幌側へ。札幌側から海側へ
と道がある限りジグザグコースで花畔方面へと走ってみた。
 そうして、かなり花畔に近付く頃、札幌側からの道が大きくカーブして、広い「切り通し」と
なった。
 左手に「竜徳寺」というお寺。右手の小高い丘のあちこちに雪の中から「お墓」が顔を出し
ている。
 アリマシタ。アリマシタ。これが「屯田墓地」で、最高峰18.5米の地点一帯は何とか原影
を保っていたのであった。
 「切り通し」を越えるとたん、眼前には「花川団地」の街並が開けて唖然とさせられたが、
左手の新しい校舎は「紅南小学校」だったし、傍らには「紅葉山通り」と道路標識が立ってい
たので、やや気分を取り戻した次第だった。
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 現在、埋戻しには「火山灰」が使われているが、一昔前迄は「バンナグロの砂」が多く使わ
れた。
 思うに、付近の農家にとっては平地が少しでも広がった方がよろしい。一方、土建業者は
タダの砂山を削り取って行けば良いだけだから両者の利害関係は完全に一致した。おまけ
に札幌側からはどんどん道路が延びてきて山並みを分断してしまうし、海側の石狩町では
団地作りを始めるものだから、あわれ「紅葉山」は蟻に取り囲まれた芋虫のように、喰いちぎ
られてしまったのが実情だろう。
 地平線の彼方に遠く連らなり、自転車をふんで「茸取り」に行った懐しい「紅葉山」。それは
遠い昔の話−ではなくて、昭和30年代までは、そうだったのだ。