その34
          「渡船場」の巻(1988. 4.bP)         

  村の渡しの船頭さんは
  今年六十のお爺さん
  年はとってもお舟を漕ぐ時は
  元気一杯櫓がしなる
  ソレ ギッチラ ギッチラ
  ギッチラコ
 この童謡を記憶している人は多いと思うが、「今年六十のお爺さん」の一節
には大いにコダワリを感じる。私も何時の間にやら60歳を越えたのだが、子
供は3人とも未婚なので、「お祖父ちゃん」と呼ばれたことは1度も無く、心
身ともに壮者をしのぐ程と自負はしているものの、やはり他人様の目には「お
爺さん」にうつるのかも知れないが、どうも迷惑千万な話だ。
 ところで、この童話の中に「渡し」という言葉が出てくるが、「矢切の渡し」
という演歌も流行っていたのだから「渡し」と云えば、まだ死語にはなってい
ない様だ。
                ◇
 道路が川にぶつかると橋があり、橋を渡ると又、道が続く−と、いうのが現在
ではあたり前の話だが、昔は必ずしもそうではなかった。
 一つには防衛上の問題があった。西国から大兵団が江戸に攻め入ることを阻止
するために、大井川には政策的に橋を架けなかった。大名行列はその石高により
編成に大小はあったものの、行列そのものは武装集団だが、長雨続きで、いわゆ
る「川止め」ともなれば、2日でも3日でも「渡し」が再開されるまでは長逗留
を余儀なくされた。もしこれが「敵」であったならば、江戸防備に対する十分な
時間が与えられることになると同時に、不意をつかれるという心配も無用となる。
即ち徳川幕府の深慮遠謀というやつだ。
 二つめには橋を架けるには大小にかかわらず「金」がかかる。従って「金」の
出道がない限り橋は架けられない。埼玉県の田舎にいる私の伯父は、私財をはた
いて村道に橋を架けたので、「なんとか褒賞」を頂いたが、現在でもそんなものだ。
 最後には「川」自体の地理的条件によるだろう。
(1)揚子江や黄河のような「大河」には、国家的な大事業でない限りは橋を架
けることは無理である。
(2)「峡谷」にも大変なので、現代でもナヨナヨした「吊橋」程度のところが
沢山ある。
(3)いわゆる「暴れ川」にも架けにくい。チャチなものを架けてもすぐに流さ
れる。かと云って長大で堅牢なものは莫大な費用を要する。
 従って、「舟渡し」は昔は重要な道路交通上の一手段であったし、現代にあっ
ても又、そう云えよう。
              ◇
 市内を流れる「豊平川」は有名な「暴れ川」だった。今でも都市を流れる川の
なかでは日本一の「急流」だそうで、その昔、豊平峡ダムも簾舞のダムも無かっ
た頃には、山奥からの川水が「オイラン淵」や「ハッタリベツ」に満々と湛えら
れ、それから一筋の流水となって北へ向っていたが長雨とか融雪期には鉄砲水で
「オイラン淵」がオーバーフローして、現在の札幌市内を網の目の様にメッタヤ
タラに流れ走り、どれが本流だかわからぬ状態になってしまう。
 そうして干上ると、「本流」と、いくつかの「支流」を残して、宏大な荒地が
出来上がる。これを太古から繰り返した結果、我が「札幌市」は豊平川の「扇状
地」の上にあり、「サッポロ」の地名もアイヌ語の「乾いた宏大な土地」を意味
することは市民の常識となっている。また、堤防の無かった頃の「主流」は洪水
のたびに川筋が変ったので、現在の「伏古川」が「本流」の川筋だったこともあ
る。「伏古」はアイヌ語の「フシコ・サト・ポロ・ベツ」、即ち「旧札幌川」を
意味することは前にも書いた。
               ◇
 さて、徳川幕府の札幌に「本府」を置く計画を踏襲した明治政府は、「開拓使」
というお役所を作って「北海道」の開拓に本腰を入れ始めたが、主都の予定地
「札幌」は、地理的に
は孤立無援の地だ。そ
こで東本願寺の若い坊
さんが先頭に立って、
虻田からの山越の新道
の開削を始める。豊平
川は急流で水運は期待
できないので「伏古川」
から「大友堀」という
運河の開削も始める。
そうして室蘭から千歳、
島松を通る「官道」
(国道)の開削も急ピ
ッチで進められたが、
この道路、今の「豊平
橋」の付近で、「豊平
川」に突き当る。とり
あえずは「舟渡し」に
頼るしかない。そこで
「志村鉄一」なる者を
「渡し守り」に任命す
る。かくして「志村鉄
一」が「札幌市民第1
号」になったことも周知の事実であろう。
 その後、明治9年に此所にお雇い外国人N.W.ホルト設計の木造トラス橋が
架けられたが翌10年には洪水で破壊され次のP.W.ホイラー設計の橋も明治
12年には流され、14年に架け変の橋も明治21年には再び架け変えられて、
やっとそれから10年後の明治31年に電車も通る「鉄橋」が完成したが、昭和
41年にこの鉄橋も解体されて現在の「豊平橋」になった歴史が残っている。
 いかに「豊平川」が「暴れ川」であるかと物語るものではないか。そうして、
この様な川へ橋を架けることが、いかに高度の技術と、高額な建設費を必要とす
るかも良くわかるのである。だから私が一中(現南高)に通学していた昭和10
年代頃でさえ、札幌市内に架かっていたのは、東橋・一条橋・豊平橋・幌平橋・
藻岩橋の5橋のみで、あったのだ。
               ◇
 この5橋の内、最も新しかったのが「藻岩橋」で昭和7年に完成したコンクリ
ート造であったが、実はこの橋、「二代目」なのだ。「第一代目」は少し下手に
明治14年に架けられた朱塗の木橋だったそうだ。
 ところで、明治6年、お雇い外国人として来日したエドウィン・ダンは明治9
年から真駒内に3千ヘクタールに及ぶ大農場の計画を進め、若き彼の熱情と誠実
さで、これが実に立派な精華を結びだした。
 一方、明治9年には山鼻に「屯田兵」が置かれ、西9丁目の東屯田通と西13
丁目の西屯田通には、この両屯田通をはさんで、間口10間、奥行15間の宅地
割りに、それぞれ兵屋が建てられた。
 そうしてこの両屯田通の中央に、もう1本道路を通したのが現在の「石山通り」
だ。この石山通りだが、一直線に南へ南へと進むと、必然的に豊平川につき当る。
川を渡って真駒内に入り、尚真直に進む道が真駒内の今でもメインストリートに
なっているが、最後には「中山越え」をして来た現在の国道230号線とドッキ
ングすることになる、だから明治初年には石山通りと真駒内を結ぶ地点には「渡
し」があった筈だ。
 明治14年に明治天皇が来道され、今の「市民会館」の場処にあった「豊平館」
に宿泊されて、山鼻の屯田兵村と真駒内の牧場に巡幸されるとあって、急遽「渡
シ」に架けられた朱塗の木橋が初代の「藻岩橋」だったのだ。
 勿論、急場しのぎのチャチなものだったろうから、すぐ流されてもとの「渡し」
に戻って、これが昭和7年頃迄続いたわけだ。このことは大正6年の地図により
よくおわかり頂けると思う。
 私は小学校に入る前に一度だけ、この「渡し」を通ったことがあるが、本流の
両岸からワイヤロープ?を架け渡し、これを舟頭さんが〈たぐりよせる〉格好で、
中島公園のボートに毛の生えた程度の小舟を往復させていたのだが、これでも馬
1頭は渡せたそうだ。この「渡し」も昭和7年に立派なコンクリートの「藻岩橋」
が出来ると廃止され、道路だけは残ったが石山通りは南33条あたりで右にやや
それる形となった。今でも旧道と新道の「二又路」になったところに「明治天皇
御巡幸」の記念碑が建っている。
 一方、キャンプクローフォードの建設中までは、「渡し」から真駒内までは林
檎園内の一条の小径として残されていて、平岸からくる道路との交叉点にも「記
念碑」が建てられていた。
                ◇
 今や、札幌側の旧道は、キャンプ建設当時、労務者相手の一杯屋がボツボツ建
ち始めたものが狭隘な一市道に変じ、真駒内側の旧道は「新藻岩橋」を渡る新道
の底に消え果ててしまった。そして偉容を誇った「藻岩橋」も老朽化して「人道
橋」に格下げされてしまっている。
 しかし、オリンピックに備えて架けられた「新藻岩橋」を札幌側から渡る時に
は、チョット左手を見下してほしい。石山通を真直に南下して来た旧道が「豊平
川」とぶつかる地点、此所に我が懐しの「渡舟場」があったのだ。