その36
         「アカシヤ街道」の巻(1988.12.bR)       

 「石狩街道」や「室蘭街道」と違って、「アカシヤ街道」は北大構内にあった。あったと
敢えて過去形で呼んだのは今は無いからだ。そうしてこの名称は、北大構内を我が物
顔に遊び廻っていた、北9条小学校に学んだ、それも我々の世代の者にだけ通じる愛
称?であったのかも知れない。
 ところで、明治の初期、開拓使はお雇い外国人の力を借りて、農産物の種子や樹木の
苗を随分取り寄せて、北海道の風土に適応する品種を模索したものらしい。農事試験所
あたりでは学問的な飼育が行なわれていただろうが、種子や苗木は一般家庭にもお裾
分けがあったらしい。その頃の札幌の住宅事情は今の様にセセコマシイものではなかっ
たので、大ていの家のまわりは庭になっていて、その片隅にはグズベリやカリンズが植え
られ、果樹ではスモモやアンズが繁っていたものだが、これらは殆んど市内では見受ける
ことが出来なくなってしまった。
 また、梅干しにする梅の実だが、道内ものは和歌山県などの本州物にくらべると、サイ
ズが大きく種子もまた大粒だが、これは本州系の梅が本道の厳寒に弱く、実のツキも悪
いので品種改良の為、アンズとカケ合せたものだそうだ。だから本州ものの梅干の種子は
小粒で両端が尖っているが、道産物のそれは、アンズの種子そっくりで両端は丸味をおび
ているわけだ。
 ところで林檎にしても早生から晩生まで、苗木は1号から始まる通し番号で送られて来た
らしい。従って「旭」と呼ばれた、晩生の皮が真赤で身は柔らかく、甘酸っぱい果汁のタップ
リとした、私の大好きだった(残念ながら今店頭には見当らない)の以外は、6号、14号、
49号等と呼ばれていたのだ。ゴールデン・デリシャスなどは49号系の子孫だと私は思って
いる。
 話は横道にそれたが、当時の札幌には樹木が多かった。昭和18年、仙台で学生生活に
入った私は、土地の人々が「仙台は杜の都」だ、と、自慢するのがチャンチャラおかしかっ
た。杜と森の違いは良くわからないが、我が札幌のほうが、もっと、「森の都」にふさわしい
風情を持っていたからだ。
 その樹々のなかでも子供の頃から、「エルム」や「エゾマツ」等はさておいて、「ポプラ」こ
そ、我が故郷の樹だ。と、感じていたのは私だけではなかった筈だ。とにかく、当時の札幌
市内ばかりではなく郊外にも「ポプラ」は多かったのだ。
 この「ポプラ」、ドキュメンタリーTVなどでは、朝鮮やシルクロードのカトマンズあたりの風
物にもよくあらわれるので、外国生まれなことはたしかだが、開拓当初に苗木として持ち込
まれたものだろう。
 何しろ生育が早い。真直に天高く聳え立つので、ビッシリと植え込むと、立派な「風よけ」
となる。
 銭函へ海水浴に行く時、桑園駅から先はもう田舎だ。茫漠たる牧草地の彼方のサイロの
ある農家が、背の高いポプラに取り囲まれているアクセントは、常に汽車の窓から見られ
た、ごく普通の札幌郊外だったのだ。
 ところでポプラには「オス」と「メス」があることは案外知られていないようだ。天に向って、
ピンとツッ立っているのが「オス」で、「メス」は背も低く、枝も横に拡がって、何とも見ばえ
のしない樹相だ。しかし葉はソックリ。サッポロビール園にお出かけの節は、よく観察して
来てほしい。あの赤煉瓦の周辺には、かなりの巨木になった「メス・オス」が共存している
数少ない場処なのだ。
                        ◇
 ところで、ご存知のように北大の敷地は正門の半町南の仲通りから始まる。この仲通り
で育った私には、大学の構内は絶好の遊び場だった。 そうして、その当時(昭和一ケタ
時代)、大学の敷地と民地の境界は白ペンキ塗りの木柵で仕切られていた。写真の(1)は
私の末弟(昭和7年生れ)の幼年の頃だが、後の木柵がこれで、4寸角位の先端を尖らし
た木柱が、1本おきの「目透し」で北8条
西5丁目の南門のあたりから、旧電車通
りに添って、延々と 北16条あたりまで続
いていたのだ。そうしてこの木柵の内側
にはポプラの巨木が、これまた延々と続
いた景観だった。
 北大が都心部から現在地に移ったのが
明治26年というから、木柵が先か、ポプ
ラを植えたのが先かは不明だが、ポプラ
の寿命は50年程と言われているので、
40年以上を経過した巨木が並んでいた
ことはたしかだ。
 ところが、昭和11年、帝国陸軍の秋期大演習が本道で実施されることになり、農学講堂が「大本営」として使用されることになると、これまでの「木柵」は一挙に撤去されて、
写真(2)にみるような、大谷石とベージュ色の2丁タイルで化粧されたRC塀の工事が突
貫工事で始まった。写真(1)と(2)は殆んど同位置だから、その違いは良く判るだろう。
そうして「ボーイスカウト」姿の少年は、小学校5年生の私なのだ。この突貫工事の時、
邪魔になるポプラはかなり切倒されたが、まだまだかなり残存していて、夏には油蝉が、
  うるさい程に鳴き交い、秋になる
  と落葉も山程掻き集めて、この
  RC塀の上から飛び降りるのが、
  我々の楽しみの一つだった。
         ◇
   当時ポプラ並木はこの伐採とい
  う「ご難」にも会わず、1本の欠落
  も無く続き、これが終ると「アカシヤ
  並木」が1丁程続いていたのだ。我
  々は当時前半を「ポプラ街道」、後
  を「アカシヤ街道」と、呼んでいたの
  だが、その頃は観光客の訪れること
  もなく、図版を持って写生に来ている
  小学生の一群以外は人気も無く、1
  時間おきに鳴る鐘の音、西は手稲の
  山麓、北は遙かに地平線という情景
  だった。
  昨年の7月、もう50年近くも続いている北9条小学校の同期会が開かれたが、今回の趣
向は、60歳をこえたオジンやオバンが、80をこえた恩師を車椅子に乗せて、大学正門をスタートして、懐しの北大構内を一巡することになった。
 観光客に挟まれるようにして、「ポプラ街道」に達すると、「倒木のおそれがあり、危険なので
立入を禁止する」という掲示板とともに、街道の入口は鎖で通行止めになっていたのには驚いた。
 我々は恩師を車椅子ごと持ちあげて鎖を越え、しばし逍遥して往時を偲んだが、あるべき巨木は数少なく、ところどころは欠損しているうえに、西には「石山通」を自動車が走り、北の地平線は今いづこ−という環境の激変に声もでなかったのが事実だった。そうして「ポプラ街道」のつきるあたり「アカシヤ街道」は影も形も消え去っていたのだった・・。
                       ◇
 ポプラの姿は極めてよろしい。しかし根の張りが無いので巨木の風倒は極めて危険だ。繊維は螺旋形に伸びているので製材に不向きな上に材質ももろい。おまけに水気が多く、鉈でも割れないので燃料にもならない。
 かくして、札幌市内外のあの数多く聳えていたポプラは、いつしか姿を消していったものだろう。
 ポプラの種子の綿毛が、雪の様に飛びかい、風に吹かれて球になり、道路の片隅に泥まみれになって転がっている風情が見られなくなって、もう随分、時がたってしまった。