その41
         「鉄 北」の巻(2)(1990. 8.bQ)

  〈円山〉64歳の男性
 その昔、西21丁目あたりに小川が流れていたそうで、この川跡は今でも小径となって
残っていますが、これが札幌と円山の境界線でした。
 円山は〈庚午の村〉から始まって、その後、〈藻岩村大字円山村〉となり、昭和13年には
〈円山町〉に昇格して、昭和16年に札幌市と合併しました。私の母校は今でも大鳥居の傍
にある「村立円山小学校」即ち、札幌人から見れば、隣村の小学生だったわけです。しか
し、前号で「琴似」生れのご婦人が、私には「札幌人」という感じはないと云っておられます
が、少なくとも私個人については、「札幌ッ子」として育ってきたように思われます。恐らくは
街続きで昭和の初期には行政上は別として、感覚的には札幌の一部になり切っていたか
らでは無いでしょうか。
 また、「藻岩村」と「円山村」との境界は、「双子山」のふもとを流れていた小川だったそう
で、堺を流れているので、「界川」と呼ばれていたもののようですが、近頃は人家も建てこ
み「界川」という町名もありますが、終戦後の命名で新しい地名です。

  〈山鼻〉70歳の男性
 私は南7条西13丁目で育ちました。勿論「山鼻ッ子」ですが、そう云う呼び方は無く、今
でも生れながらの「札幌ッ子」という気持ちです。幌西小学校にかよいましたが、このあた
りが「山鼻」の西のはずれだったように思われます。また札幌一中(現南高)にもかよいま
したが、このあたりも「山鼻」で、どうも「鴨々川」から西の方が通称「山鼻」であったのでは
ないでしょうか。南はせいぜい南22条あたりまでで、それから先の「軍艦岬」あたりまでは
「ホップ園」や畑で人家もまばらではっきりした地名はわかりません。
終戦後の昭和21年頃から「藻岩下」などと
呼ばれる部分も出て来たようです。
 また、軍艦岬から先の方面は今でこそ
「川沿町」などと呼んでいますが、あれは
「八垂別」でした。「軍艦岬」とか「八垂別」
と云うと、若い者は「古い、古い」と笑いま
すが、「温故知新」を教えようとすると「ソレ
何の事?」とポカンとしている始末で誠に
情無い次第です。

  〈中の島〉57歳の男性
 私は林檎園の3代目です。
 現在「中の島」と呼ばれている部分は、
昔の「中の島」と殆ど変っていません。即ち、
豊平川と精進川とにはさまれた大きな中洲
が「中の島」なのです。祖父の時代には堤
防も不完全で膝まで没する様な洪水に随
分悩まされたそうですが、私の育った頃に
はもう一面の林檎園でした。
 「札幌」と「中の島」を結ぶ〈幌平橋〉は、ま
だ木造で、床板などは所々穴があいて、お
っかなびっくり渡らなければならない様な
代物でしたが、床板の剥れたところから腹ばいになって川面を見下すと、「秋味」がスイス
イと遡上してゆく姿が見られたものでした。

  〈平岸〉61歳の男性
 私は〈平岸〉で生れ育ちました。
 精進川ぞいの坂道(崖)を登ると、〈平岸街道〉方面までの一帯が〈平岸〉です。これは今も昔
も変りません。
 〈平岸〉は〈中の島〉と同様に一面の林檎園でした。
 林檎という樹は虫やバイ菌に非常に弱いので、春先の芽の出る前に、樹の幹が真白になる
くらいに「流黄入剤」を噴霧します。それから収穫まで何回も農薬をまかなければなりません。
「農薬」の害がどうのこうのと騒がれることが無かった時代ですから、ホッカブリの程度でやっ
ていたものでしょう、随分と身体をこわした人もいたようです。それで「林檎園」には嫁にやるな、
と、云われていたことを覚えています。
 また、昔の「平岸街道」は中央に川が流れていて、その両側に馬車道に毛の生えた位の道
路が続いていました。勿論、両側は「林檎園」でしたが、この道を南に行くと、右手に「平岸小
学校」がありました。現在もその位置に立派な校舎が建っていますが、これが我が母校で、当
時は木造平屋建のオンボロで1学年1クラスでしたが、この小学校に、平岸、今の澄川(当時
は北茨城)・真駒内方面の子供が皆かよっていたのでした。
 「真駒内」も今自衛隊のいるあたりは国立の大農場で関係者も相当数、住みついていたので
通学生もかなりいたものだと思いますが、何しろ遠いので、今ならばスクールバスというとこで
しょうが当時の事ですから、夏は幌のついた馬車、冬は馬で通学していました。これを私達は
いつも羨しく思っていたものです。
 また、当時の「平岸小学校」は師範学校(現教育大)の付属小学校だったのです。ご存じの
様に一般の小学生は丸い学生帽ですが、付属小学校は「三角帽」です。私たちもこの三角帽
でかよっていたのですが、横にブラ下がった房の色が、4年生までは赤。5年以上は白で、白
の房を付けた時は、ちょっと大人になった様に感じたものでした。今でも「あいの里」に向う、三
角帽の小学生を見ると、昔懐かしく何か胸のあたりがキュンとしてくるのです。

  〈豊平〉66歳の男性
 私は「豊平橋」のすぐそばで育ちました。当時の「豊平橋」は風格のある鉄骨の三連アーチで、
この上を薄野から定鉄の豊平駅まで市電が走っていたことを覚えている人間が少なくなってき
たようです。
 豊平村(町)は広い面積で、豊平川の右岸は豊平橋のから定山渓にまで及んでいました。だ
から〈中の島〉・〈平岸〉・〈真駒内〉等はすべて〈豊平〉の一部だったわけです。
 ところで、私は「川むこう」の人間ですが、小さい時から「札幌人」という気持ちでおります。こ
れは、私の育った「大正」時代には既に、「北海学園」一帯を含み13丁目(現在では美園との
境界線)までは札幌市に含まれていたからだと思います。とは云うものの、9丁目の定鉄「豊平
駅」(現在は、じょう鉄不動産部が入っている)が市電の終点で、踏切を越えると、途端に人家が
無くなって、国道36号線の両側は田圃か畑で、〈月寒(つきさっぷ)〉の方向に1本道が長々と
続いている有様でした。 今の「月寒公園」の中には、帝国陸軍歩兵隊25連隊の「実弾射撃場」
があったのですが、もうどのあたりだったのか見当もつきません。〈美園〉などという地域は、田
圃を埋めたてて宅地化したところで、私達に云わせれば“新開地”。住んでいる人々は「田舎者」
というところです。

  〈白石〉83歳の女性
 「東橋」を渡って現在の国道12号ぞいの一帯が〈白石〉で、仙台藩の支藩である「亘理藩」の
家臣は「屯田兵」としておの協力のもとに明治8年に来道したそうですが、こちらはそれよりも4
年前に裸一貫の「開拓民」としてやって来たのですから、その苦労は並たいていのものでは無
かったと云います。
 同じ「白石藩」でもやや高級に属する団体は「手稲」に入植して、早速、学校を建てて子弟の教
育にも身を入れたりしたらしいのですが、とにかく、伊達政宗の片腕と云われた「片倉小十郎」一
門の面々だとので、歯を喰いしばって頑張ったことだったと思います。
 しかし、この開拓も結論的には失敗だったのでは無いでしょうか。都心部を離れた田舎だとい
うことで、「薄野」から「遊郭」が移って来たり、「東橋」の下には「サムライ部落」が広がったりし
て、今でも「東橋」から先の方はガラが悪いとは云われていることを本当に残念に思っておりま
す。
 私はもう年ですが御陰様で足腰はまだ達者です。それで時々「白石神社」にお詣りに行って
おりますが、この神社は本通り14丁目北の小高い丘の上にあって、明治4年、家臣団が故郷
の「白石」を離れる時に氏神様を分霊して持ってきて建てたものなのです。それで、私は今でも
お詣りをしては先人の苦労を偲んでいるわけなのです。
 〈米里〉とか〈北郷〉ですか?
昔はその様な地名はありませんでした。アイヌも住んでいなかった、只一面のヤチだったのです。