その6
           「北茨城(きたいばらき)」の巻(1978.12.bR)

 終戦の昭和20年9月、戦時繰り上げ卒業の最後として、うやむやの内に学窓から押し出さ
れ、それからは建設業界の常として北は稚内から南は沖縄まで独り者の身軽さもあったが、
命ぜられるがままに盥まわしされて、生れ故郷の札幌に再び落ち着くことになったのが昭和
31年だから、十年余は札幌を空にしていたこととなる。
 十年振りで札幌に帰ってみて驚いたのは私のいう地名はわかってもらえず、いわれる地
名がどこの事かさっぱり見当のつかないことだった。 
菊水・旭町・栄町・北郷・本郷・山の手・川沿、等々これには参った。その内の一つが表題に
つながる「澄川」だ。
                       ◆
 札幌市の奥座敷「定山渓」への鉄路が完成したのは大正7年で、亡母(生きていれば今年
は米寿の祝だが)の話では、開通当初はSLが黒煙を吐いて引っ張り、藤の沢をすぎて峡谷
にさし掛かるとお客は断崖絶壁の景観を眺めんものと川側に集中する。すると小さな客車が
だんだん傾いて危険状態になってくるので、すかさず車掌が、
 「エー皆様、立ち上がらないで下さい。片側に寄らないで下さい。転覆のおそれがあります
から、両側平均に御坐り下さい。」
 と、車内整理をして歩いた─ものだったそうだ。
 私が物心のついたのは昭和初期だから勿論SLではなくスマート?な「温泉電車」になっ
ていた。
                       ◆
 さて、温泉電車の出発点は豊平駅だが、市電の豊平線終点にあった木造の駅舎は今もそ
の名残りを止めてはいるが、すっかり市街化された周囲の中で居心地悪そうに肩をすぼめた
風情。しかし当時は、札幌の街並も此所迄で、その最後をしめくくるかなりの威厳で立ちふさ
がった感じだった。この電車の踏切を渡ってすぐ左側に製麺工場があって、屋根の上の櫓状
のものからは白い饂飩や素麺が細く長く幅広い滝の様に垂れ下がり、風にゆらいでいたもの
だったが、これから先は月寒(ツキサップ)まで両側見渡す限りの田圃で、月寒といえばそれ
はそれは遠い所だった。又、月寒市街といっても歩兵第25連隊の門前町の様なもので、ほん
のチョボチョボの街並だったが、忘れられないのは真中に出臍の様な干ブドーのついた、あの
「ツキサップパン」の味と香りにつきる。 又、月寒市街の手前を右折して、しばらく行くと実弾
射撃場があった。旧制中学の高学年になると軍事教練で射撃演習があり、この日ばかりは日
頃の空包ではなく実包(人を殺せるホンモノ)が射てるので幌平橋を渡って重い鉄砲を肩に長
い行軍も疲れて帰った記憶はさらに無い。 射撃場に着いて、一場の訓示があり発射位置に
伏せ、100米先の標的を狙うと、何と直径30糎の黒丸が鉛筆の太さ程にしか見えない。この
黒点に命中すると10点で、5発射って50点が満点となるが、眼の良かった私は常に40点以
上だった。このとき使用したのが「三八式歩兵銃」で明治38年制定の古典的な代物だったの
に、これが太平洋戦争でも歩兵の主力兵器だった「皇軍」に対して一人々々が連発銃を持って
いた連合軍に歯が立たなかったのも、もっともだった。
 標的の後には、銃弾の飛散を防ぐために背の高い土塁が築かれていたが、今ではそれが
どのあたりであったのか皆目見当もつかなくなってしまった。
                       ◆
 豊平駅を出発した温泉電車は、しばらくは田圃の中を走るが、やがて両側一帯は林檎園と
なり、春先には白い林檎の花の海の中にポッカリ浮いた泡の様に、「北茨城」の駅舎があった。
 北茨城とは、温泉電車の開通当時この附近の大地主だった茨城さんが、鉄道用地を寄付し
てくれたので、そのお礼の為に付けられた駅名であり、駅名が地名になったものだそうだ。
 一方、「澄川」は精進川の清澄な流れにちなんだ地名ということで、驚いたことにはすでに
昭和19年には北茨城から澄川に改称されている。尚、調べてみると「ツキサップ」が「つきさ
む」と読み変えられたのも昭和19年で、これには北部軍司令部の強い圧力があってのことと
聞いている。多分終戦間際のドサクサの中にいろいろなことが、検討を加えられる暇もなく変え
られていったトバッチリなのかも知れない。
 それはそうとして、急激な市民増による市街化の波に押しまくられて、林檎の樹は切り倒さ
れ、林檎園は小間切に宅地化され、無秩序に家屋の立ち並んだ現在の「澄川」からは、林檎
の花ほころび川面に霞立ちし昔日の「北茨城」の面影を忍ぶ、何物も残ってはいない。